堕涙碑とは?
羊祜 その人柄を敬い慕われた晋の将軍
都督荊州諸軍事として呉との国境に赴任した羊祜は、民を慰撫し、民政・内政で手腕を発揮しました。敵国である呉が攻めてきた場合でも、丁重に遺体を送り返すなど礼を尽くしたため、呉の間でも「羊公」と呼ばれ、敬慕されたと言います。
陸遜の息子である陸抗とは国境を挟み任地が隣であり、敵同士ながら才能を認め合い、互いに競うように、内政の充実に努めました。
ある時、陸抗の体調が悪いと聞いた羊祜が、陸抗に薬を贈りました。呉の武将たちは、毒薬ではないかと疑い、反対しましたが、陸抗は躊躇わずにそれを服用し、体調を取り戻しました。後日、薬の返礼として酒を受け取り、羊祜もまた、毒見もせずに飲んだと言います。
両者が信頼や信義というものを身をもって示したエピソードから、
いかなる政治的な先入観にも囚われない私的な交誼を表す「羊陸之交」という成語が生まれました。
羊祜の死後、襄陽の人々が遺徳を偲んで「羊公碑」を建立しました。その碑文を読めば誰もが羊祜を惜しんで泣いたため、「堕涙碑」と呼ばれるようになりました。
唐代の襄陽出身の詩人孟浩然が何度か詩に詠んでおり李白も「君見ずや、晋朝羊公が一片の石」と詠じています。